こんにちは!
日本アート教育振興会の石川です。
みなさんはこの夏、いかがでしたか?
私はこの夏、初めてプラハとベルリンに行ってまいりました。
プラハといえば、ミュシャ!
ベルリンといえば現代アート!
と、その国の文化・芸術に浸ってまいりました。
そして今日は
「新しい時代を描く・創造する 〜モネ:シリーズ2〜」
として、モネの生涯を紐解きながら、
彼の作風確立について見ていきたいと思います。
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・1840〜1859年:少年・修行時代
・1860〜1871年:出会いの時代
・1872〜1882年:印象派の出発
・1883〜1898年:連作の時代
・1899〜1926年:睡蓮の時代
前回の「シリーズ1」では、「1840〜1859年:少年・修行時代」にフォーカスし、
モネの初期の活動と、師匠であるブータンからの影響についてお話ししました。
今回は、
「1860年〜1871年:出会いの時代」
「1872〜1882年:印象派の出発」についてお話ししていきます。
この時期は「出会いの時代」とあるように、
印象派メンバーや妻となるカミーユなど、
モネの人生に大きな影響を及ぼした人物たちとの出会いが多かった時期でした。
そして、この時期のモネの作品の特徴を簡単に言うと、
「時代の最先端(=流行)」を描いているということができます。
<「時代の最先端」を描く>
当時のファッションの流行でいうと、
ハイウエストで、後ろの裾が少し長くなっているドレスが流行りでした。
モネは、ただのドレス姿の女性を描いているのではなく、
当時の流行に注目することで、「時代の最先端」を表現しようとしました。
またモネはファッション以外でも、「時代の最先端」を描こうとしました。
それが「週末の小旅行」です。
当時のパリでは、市民の間で週末の小旅行が大流行りしていました。
その代表的な例として、
パリ近くブージヴァル近郊セーヌ川の河畔にある
新興行楽地であった水浴場「ラ・グルヌイエール」が挙げられます。
当時、モネはこの場所にルノワールと訪れ、
2人は同じような構図でラ・グルヌイエールで
リフレッシュする人々の様子を描いています。
モネの描いた《ラグルヌイエール》
ルノワールの描いた《ラグルヌイエール》
この時期から、モネはルノワールとともに
作品をこのことから二人が切磋琢磨しあいながら
作品制作を行っていたことが伺えます。
そしていよいよ、モネたちは「印象主義」への道を開拓していくのです。
<印象主義の誕生>
1874年に第一回印象派展を開催し、
それ以降7回に渡って印象派メンバーによる自主展覧会
が開催されるようになりました。
印象派の始まりは、一つの夕日の絵でした。
《印象、日の出》
この作品をみたルイ・ルロワが揶揄した言葉が、
印象派という名前の由来と言われています。
ですがこの「印象派」という言葉、
ただからかわれたからつけた訳ではもちろんありません。
モネたちにもそれなりの狙いがありました。
まず印象派をフランス語でいうと「Impressionnisme(仏)」
インプレッショニズムといいます。
これを分解すると「イン」は内へ、
「プレッション」は押し付ける・押し寄せるという意味になります。
つまりインプレッションとは「内に押し寄せるもの」という意味であり、
この「内に押し寄せる」という感覚は、
彼らの制作スタイルとも大きな関係があると言えます。
<「内に押し寄せてくる感覚」を描く>
従来、作品制作というものは、外でスケッチを行い、
その後アトリエで習作を描いたのち
作品として制作するスタイルが一般的でした。
しかしモネをはじめとする印象派のメンバーは、
基本屋外で制作を行いました。
そうすることでその時、感じたもの、空気感など
画家の「内に押し寄せてくる感覚」を研ぎ澄ますことができました。
その風景から受ける活気や空気感、雰囲気など、
画家の「内に押し寄せてくる感覚」を大胆な筆致で描く。
こんな意味を込めてモネたちは、
自身たちを「印象派:インプレッショニズム」と呼ぶようになりました。
そして、モネのほかにも、「当時の流行」を描く作家が多くいました。
その理由に、
「モデルニテ」=「時代のアイコン」
という概念の誕生がありました。
このモデルニテとは、
1863年に発表された書籍『現代生活の画家』の中で、
シャルル・ボードレールが提唱した概念を指します。
ボードレールは『現代生活の画家』のなかでこんなことを言及しています。
「昔の画家一人一人にとって、それぞれの現代性があった。
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どの時代にも、それぞれ独特の身のこなし、
眼差し、微笑みというものがある」 。
つまり、ファッションも流行の流行り廃りがあるように、
モデルニテの移り変わりは、「時代の移ろい」ということができます。
そして、この「時代のアイコン」として
モネの時代によく描かれていたモチーフが
「流行のドレス」
「観光地」
そして「蒸気機関車」でした。
<「時代のアイコン」としての鉄道>
フランスでは1837年にパリで最も古いターミナル駅としてサン・ラザール駅が開業します。
当時としては、ガラスと鉄といった建築的に言っても珍しく、
蒸気機関車という点でも画期的なことから、
サン・ラザール駅は、パリ近代化の象徴として、今でも知られています。
また「鉄道」はフランスにとどまらず、
「近代的なものの象徴」として描かれていました。
その例として、ウィリアム・フリスの《鉄道の駅》が挙げられます。
(1862年制作)
そして、モネも例に漏れず、「近代的なものの象徴」として、
サンラザール駅の様子を描いているのですが
じっくり鑑賞すると、いかがでしょうか?
この作品の「主題」である機関車の描かれ方。
駅舎に籠る空気感。
そして列車に乗り込もうとする人々の描写。
モネは、「鉄道」という近代の代表的なアイコンを
描きながら、その関心は別にあるといえます。
そしてこの「関心ごと」が後にモネを大きく変化させるのです。
<「出会いの時代」「印象派の出発」を経て>
今まで、モネは流行のドレスや当時の人がよく訪れていた観光地、
そして19世紀を代表する列車など、
まさに「モデルニテ」に注目して作品を制作していました。
ルノワールをはじめとする、前衛的な芸術実践を行う者などとの
関わり合いによって、モネは「内に押し寄せてくる感覚」を
研ぎ澄まし、高めていったといえます。
つまりモネは、他の人と関わり刺激を得ることによって
今までになかった「着眼点」を獲得し、
さらに後世に影響を与えたアーティストになったと言えます。
つまり、この刺激をなくして、
「印象派 モネ」は誕生しえなかったかもしれません。
そして、徐々にモネの態度は大きく変化することになります。
ではどのようにモネの作品が変化していったのでしょうか。
次回はモネの「連作」に注目していきます。
彼が「描こうとしたもの」はなんだったのでしょうか?
ぜひ次回もお楽しみに!