マネ、海軍になれなかったから画家になったってホント?

おはようございます。

一社)日本アート教育振興会の河野です。

 

《草上の昼食》や《オランピア》など、

近代絵画の扉を開いた“印象派の父”として知られる彼。

 

「マネ=印象派」

 

そう思っている人も多いかもしれません。
でも、それは実は半分だけが正解なんです。

 

彼は印象派の父とも言われますが、
実はその中心メンバーではなく、

意外にも「保守的で社交的な一面」を持っていた、

とてもユニークな画家だったのです。

 

マネは1832年、
フランス・パリの裕福なブルジョワ家庭に生まれました。

父親は法務省の高官で、
母方の祖父は王室に仕える外交官。


つまり、超エリート家庭の長男
だったのです。

言葉遣いも立ち居振る舞いもスマートで、

服装も常にビシッと決めていたといいます。

当然のように、父は彼に
「法律を学び、国家に仕えよ」
と期待します。


マネ自身も、初めはその期待を裏切らず、

名門校でクラシック教育を受け、
進路を模索していました。

 

そして父の勧めで、
マネは海軍士官学校を目指します。


が、結果は

2度の不合格

 

失意の中で彼は、
親戚から勧められた
イタリア旅行に出かけます。



ルーベンス、ティツィアーノ、
ヴェネツィアの光と色彩。

ここで初めて、
彼は
「本当にやりたいこと」に気づきます。

 

「どうやら私は、ずっと“絵”が好きだったらしい」

 

帰国後、父の反対を押し切って画家になることを宣言。


その瞬間、彼は“用意された未来”を手放し、

自分の人生を描き始めたのです。

 

 

画家としてのマネは、とにかくエレガントでした。


アトリエには紅茶と菓子があり、

文学者や政治家が集まるサロンのような雰囲気。


自身もスリーピースのスーツに身を包み、

言葉遣いも非常に上品。

 

しかし、そのひとたび筆を握ると、、、

《草上の昼食》で“服を着た男たちと裸の現代女性”を描き、
《オランピ
ア》では“娼婦のように堂々と見つめる裸婦”を描き、

19世紀パリのモラルを根底から揺るがしました

 

《草上の昼食》は

「なんだこれは!」
「下品だ!」

と批判が殺到し、
サロン(官展)には落選。


やむなく、ナポレオン3世が設けた

「落選者展覧会(サロン・ド・ルフュゼ)」
で展示されました。

 

この事件は、
後の印象派運動へとつながる
重要な一歩にもなりました。

 

でも、ここが意外なポイント。
マネ自身はというと——

「私は、サロンに入選したい」

と、ずっと思っていたのです。

 

「マネ=印象派」というイメージは強いですが、
実はマネは
印象派展に一度も出品していません

 

同時代のモネ、ルノワール、ドガたちは、
「もうサロンなんて古い!自分
たちで展覧会をやろう!」

と意気込む中、

 

彼自身は
「サロン(官展)こそ正統」
と考えていたため、

仲間のモネやルノワールが自主展を始めても、

「私は外には出ない。中から変える」

と冷静に構えていたのです。

 

マネは、あくまでも
「伝統を更新したい」
のであって、
「伝統を捨てる」
つもりはなかったのです。

 

マネは晩年、難病(梅毒による神経障害)に苦しみながらも
絵筆を止めることなく
1882年には《フォリー・ベルジェールのバー》を出品。

 

しかし壊疽が進行し

1883年についに片足を切断。
その10日後に51歳という若さでなくなりました。

 

マネは、“偉大な画家”を目指したわけではありません。
“エリート”を
目指す人生をやめて、

“画家としての自分”を生きることを選んだのです。

 

 

マネは「伝統」と「革新」のどちらかを選んだのではなく、
その
<あいだ>を生きた人でした。

 

サロンを愛しながら、タブーを破る。
優雅な日常の中に、静かな抵抗を描く。
友人たちと談笑しながら、
絵画の未来を静かに変えていく。

 

だからこそ、
マネの絵には
自由があるのかもしれません。

 

 

「みんなが期待する道」じゃなくていい。
「自分が描きたい線」を選んでいい。

マネが筆をとったのは、まさにその決意からでした。

 

誰かの期待じゃなく、自分の輪郭を描くとしたら、、、

あなたはどこから描きますか?

 

あなたにも、誰かと一緒に“見て話す”ことで
広がる世界がきっとあるはずです!

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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